伊藤千代子「獄中最後の手紙」発掘秘話
  ──なぜ苫小牧か、獄中死の原点を見つめなおす

研究報告 畠山 忠弘

……生きようとするからこそ、その大事な命をも投げ出すのですね。
……「私も真剣に準備している」(最後の手紙から)

 いま伊藤千代子の生涯を劇映画にする運動が全国で進められています。その中で、千代子はなぜ二四歳の若さで獄死同然の死なのか。 その謎を解く、唯一といってもいい物的証拠が獄中最後の手紙です。それがなぜ、遠い北海道苫小牧市にあるのか。これは誰もが抱く疑問です。

 その疑問の背景を知ることは、千代子の死を理解する上での一つの原点となっていると思います。 映画化の機会に、手紙はどのようにして苫小牧に渡ったか、どのような経過で発見に至り、公開に至ったのかを改めてふりかえってみたいと思います。

一通の手紙

 二〇〇二年の一月、伊藤千代子の研究者、藤田廣登氏から分厚い資料袋とともに一通の手紙が届いたことから始まったのでした

 その内容は、彼女が自らに課した英語の勉強という「小さなもくろみ」から、社会変革という「大きなもくろみ」へと転換していった軌跡をよく示すものでした。

 手紙の趣旨を簡単にみると、「(捜している)『手紙』は伊藤千代子が拘禁精神病を発症する直前(一九二九年七月二九日)に、夫であった浅野晃の母すてさん宛 てに書かれた獄中最後の手紙であり、これまではその一部しか公表されてなく、全文は分かっていない。彼女の最期を知る唯一の資料でかけがえのないものです。

 その手紙は、夫であった浅野晃が手許に持っていたが、一時期、長野市の文学研究者の東栄蔵氏に預けていた。突然、浅野から手紙が来て、苫小牧中央図書館に寄贈 することになったので、返して欲しいといってきたので、東氏もそのような公的機関に保管することは良いことだと思って返却した。

 しかしその後、さまざまの人が苫小牧中央図書館に問い合わせるが『ありません』という返事ばかりでいつこうに所在がわからない。 研究者たちは諦めているが、『この際ぜひ探し出して頂きたい』」ということで、それを裏付ける書類が同封されてていました。

 当時、私は苫小牧市議会議員で五人の共産党市議団の一員で一番年長であったことからこの問題を担当することになったのです。

 伊藤千代子については、治安維持法による若い犠牲者の一人であることぐらいしか知らなかったし、その人の最後の手紙が苫小牧にあるらしいということは予想もできないことでした。  私は、早速、苫小牧中央図書館に君島龍郎館長を訪ね、送られてきた資料を見せて探索を申し入れました。館長は「趣旨はよくわかりました。全力をあげて探してみます」と答えてくれたのです。

 新年の多忙な日程を割いて、私は中央図書館に通い、伊藤千代子や浅野晃に関する知識、時代背景や千代子の生い立ち、命を懸けてめざしたものは何か、治安維持法などを調べ始めました。こうして、分かってきた ことはいくつもありました。

中央図書館にある浅野晃コーナー

 まず分かったことは、千代子の夫であった浅野晃は、獄中転向した後、国家権力に協力し、日本軍「ペン部隊」の一員として戦争推進のため、中国や東南アジアにも出かけて戦争賛美の講演を行い、文章を発表 したことから、戦後は、公職追放の身となっていました。

 一九四五年の東京大空襲で家を焼かれて苦しみの中にあったとき、手を差し伸べたのが、獄中転向の先導役となった水野成夫(しげお)であった。 彼は当時、苫小牧市勇払につくられた国策パルプ株式会社の社長をしていて、勇払の社宅に浅野一家を役員待遇で住まわせ、その保護のもとに一九四五年一〇月から、五年間、そこで暮らしたのでした。

 当時、澎湃として沸き上がった戦後の民主主義文化運動、労働運動の国民的高揚の中で、東大法学部フランス法科卒の浅野晃を、戦前の彼の経歴を知らない地域は歓迎し、自らも水野の許す範囲で活動しました。 自らの転向、伊藤千代子との結婚とその死の責任、公職追放などを伏せて、作詩、作歌、講演を行い、いくつかの学校校歌の作詞、労働組合運動の相談にも乗りました。

 一九五〇年になると、アメリカが支配する連合軍の占領政策が変わり、日本の反動的復活が顕著になり、公職追放も解かれ、水野の見つけてくれた東京の家に向けて勇払を去ったが、その後も長きにわたって苫小牧地方との交流は続きました。

 一九七八年に現在の苫小牧市中央図書館が移転新築された時、地元文化の発展に貢献したとして浅野晃の特設コーナーが1階中央部に設置され、そこに浅野から寄贈された著書、手紙、原稿類などが集められ、 一九八八年「浅野晃文学資料展」が開催され、その主なものは展示されたが、なお、多くの資料が未整理のまま残されていました。

 私は、暇を見つけて手紙探索の推移と稀代の悪法と言われた治安維持法について学びました。

▲千葉県戦争展出品パネル製作・小松敦(同盟千葉県本部事務局長)

「幻の手紙」が目の前に
▲公開された4通の手紙(上から5/8・7/28= 2通・7/29)、撮影・藤田廣登

 二月の初め、君島館長から「それらしい手紙が見つかったので見に来てほしい」と連絡が入りました。私は何をさておき真っ先に駆けつけました。

 館長が見せてくれたのは、古い封ふうかん緘ハガキに書かれたものでした。それは旧かな遣いの細かいペン字で書かれた四通の手紙で、差出人は伊藤千代子、宛名は義母の浅野すて、義妹の浅野淑子宛となっていました。 日付は、一九二九(昭和四)年五月八日、七月二六日が二通、そして七月二九日が最後の手紙でした。

 五月八日には、厳しい獄中に居りながらも、浅野の家族を気遣う優しい気持ち、仲間を励ます言葉を、厳しい検閲を逃れるためか、 獄窓からわずかに見える「地しばりの花」に託して「命あるものは……」と綴られており、一三行半が乱雑に消され、検閲の印も押されています。

 七月二六日付は、思想検事の策略で、夫たちの裁判を傍聴させられ、しばらくぶりで夫の元気な姿を見せられ、安堵し、興奮して一睡もせずに朝となったことを、 一通に収まり切れずに二通に分けて義母に書き送ります。そしてこの興奮した手紙から三日後の二九日付は、一転して落胆し落ち込んだ手紙がしたためられていました。

 夫・浅野晃の変節「上申書」を思想検事に見せられた後のものと言われるこの手紙は、混乱する気持ちを必死に抑え、何とか立ちち直ろうとする気持ちが込められ、 訣別の想いを込めた夫の家族の一人ひとりに呼びかけたのち、「私も真剣に準備している、せんさん(*)はもうずんずん歩いてる!」 と書いて厳しい検閲を考慮し慎重に言葉を選んで書き綴っています。そして「美しく晴れた夏の朝、又」と結ばれています。「又」は、この続きをまた書きますよという意味ですが、 永遠にこの「又」は書かれることはありませんでした。

 全文を指でなぞるように読んだのち、私はこれだ! と確信しました。

 獄中から千代子が発信して七三年、東栄蔵氏の手元を離れて二四年が経ち、千代子研究者から「幻の手紙」といわれ、探し求められてきた貴重な手紙がいま眼前にある。 私は何か、歴史に残る重大な転換点に出会ったような気持ちとともに、「長く眠っていたこの手紙を、この地で最初に観た者として、 何らかの行動を起こさねばいけないのではないか」という想いに捉われたのでした。

(*)千代子のまたいとこの平林せん。諏訪の女工生活から千代子の援助で活動家に。千代子らの推薦で新潟県で「赤色信越」発行に携わる活動中に3・15事件で検挙。 千代子は市ヶ谷刑務所から新潟刑務所獄中のせんの救援を外部に依頼していた。

手紙の公表はできない!

 ところが、館長は手紙は「浅野の関係者がいる」との一点張りで「公開できない」と繰り返しました。

 その時になって、浅野が手紙の寄贈寄託に当たって当時の図書館長の楠野四夫氏に「自分が死ぬまで手紙を公開しないで欲しい」と依頼し、 さらには「貴図書館に保管して頂きたい」という要請を書き送っていたことがわかりました。

 東栄蔵氏には「図書館に寄贈することになった」 といって手紙四通を「取り戻し」、図書館には、「彼も万一のことがあったとき困るからと言って後日返却してきました」と二枚舌を使って最後まで自己の保身を優先させたのです。

 しかし、浅野はすでに一九九〇年他界していたので、その「非公開」の条件はクリアーしているのです。そのことを何回指摘しても、返事は変わりませんでした。

市議会での質問

 二月下旬、苫小牧市議会定例会が開かれました。新年度の予算案などが上程され、やがて、議会の焦点は予算委員会に移り、 私は一般会計審査特別委員会に所属していたので、社会教育も含む教育全般にわたって質することが出来たので、市立図書館運営問題を取り上げることにしました。

 「浅野晃という文学者が、以前苫小牧に住み、氏の文学資料の寄贈を受け、市立中央図書館に文学資料コーナーが設置されている。 一定の部分はすでに整理・公開されているが、まだ多くは眠ったままになっているという。 私はこの文学者とは生き方も考え方も違っているが、その残されている中には、貴重な価値のある手紙も含まれている。 早急に整理し、公開し市民的関心にこたえるのが公的図書館の使命ではないのか」との趣旨で質問した。

 これに対して、秋山功男スポーツ生涯学習部長が答弁し「ご指摘のように、まだ、資料整理はされていません。 文学的に明るい人材を配置し整理し、手紙などの公開は、プライバシーの保護について十分に配慮しながら、公開可能なものについては、積極的に公開していきたい」と答えました。

 私はこの答弁を引き出すために、再質問も行ってここまで来ました。担当部長はくり返しプライバシー保護を問題にしている、 今の段階では、この答弁が精いっぱいなのかも知れない、やがて公開の布石になることを願いながら他の質問に移ったのでした。

 議会の質問を行ってさらに分かったことは、公開問題が簡単に進まないのは、単にプライバシー問題のほかに、大きな背景が横たわっていることを強く感じました。 せっかく発見できても、公開されなければ文学的に本当の意味がない、公開を勝ち取る方策を考えざるを得ない課題が残ったのです。

 しかし、写真もダメ、公開は出来ないというが、「文学的研究のため」に読むこと、メモを取ることは許可されました。

 こうして、探索の要請を受け、問題の発端を与えてくれた藤田廣登氏や、一時期「手紙」を預かっていた東栄蔵氏にもそのことを伝え、共に喜びを分かちあうことができました。

 こうして、伊藤千代子の手紙がなぜ苫小牧に存在するのかはわかりましたが、浅野晃と水野成夫との関係と時代背景を明らかにしていくことなしには「公開」にたどりつけないのではないかと思うようになりました

国策パルプとその前身、大日本再製紙工場

 一九二九年、伊藤千代子が囚われていた市ヶ谷刑務所の男子房には、「3・15」事件で検挙された共産党員が多数いました。 その中には、千代子の入党推薦者で党の中央事務局長(今日の中央委員会に当たる)水野成夫や夫の浅野もいました。

 思想検事らは、彼らをターゲットに攻撃と懐柔によって、まず、指導部の水野成夫に、絶対主義的天皇制を認める「上申書」を書かせ、 それを獄内の同志たちに読ませて、転向に誘い込むやり方をとり、治安維持法による弾圧の実践として進められ、次々と転向者が増やされ、それに浅野も同調したのです。

 党の事務局員であった南喜一もその同調者です。南は釈放後、印刷物からインクを抜く再生製紙の技術を確立し、水野を誘って大日本再製紙工場を苫小牧市勇払に起ち上げました。 戦争が開始され、原料のパルプが途絶え、用紙不足を解消して需要増に応えるために、財界と政府、陸軍の中枢部と結託して始められ、一九四三年五月一日、大日本再製紙勇払工場が操業を開始しました。

 工場設立時の大問題は、戦火が激しくなったこの時期に製紙機械をどこに求めるかでしたが、中国南部広東省を事実上占領していた陸軍と結託し、 一定の金額で買ったと称されていますが、この機械を輸送し、勇払に設置したのです。ところが、戦後になって連合軍最高司令部の「日本政府への覚書」で返還命令が出されました。

 「中国に返還する機械の解体撤去作業は一九四八年七月七日の七夕の日に開始され、一〇月一〇日の双十節の日に完了した」(平井義著『大日本再生製紙の誕生と背景』)。

 水野、南らの転向者が権力に迎合し、軍部と結託した結果は惨憺たるものでしたが、旭川工場などの援助や労働者に多大な負担をかけながら、 やがて朝鮮戦争時の軍需景気に乗って再建されていくのです。

 その後、大日本再製紙は国策パルプと合併し、水野が社長となり、彼はここを足がかりに、戦後のフジ・サンケイクループの総帥として財界の四天王と呼ばれるまでになり、 政財界のフィクサーとして生涯を終えました。

 浅野も最後まで水野の影響下におかれ、本人もそれを望み、生涯を終えましたが、千代子の手紙四通については、 廃棄することなく持ち続け、最後には苫小牧中央図書館に寄託という形で長く人の目から隠してきたのでした。

市民と同盟の運動で公開の実現

 その後、手紙の公開を求める運動は続けられ、二〇〇四年になって、治安維持法国賠同盟苫小牧支部(外尾静子支部長)が市民を代表した形で市立中央図書館を訪れ、 伊藤千代子の最後の手紙の公開を申し入れました。

 私も再三にわたって館長に会い、「どんな理由で非公開を続けるのか」「図書館法のどこを見ても非公開の根拠はないはずだ」と迫り続けました。

 この間、図書館長が上田正一氏に代わったのを契機に「もう少し時間を貸していただきたい」との前向きな返事に変わり、公開への新しい段階に入った感触を受けました。

 こうして発見から二年がすぎた二〇〇五年三月の下旬、「四月一日から公開する」との連絡が来ました。私たちは、直ちにマスコミ、研究者、関係機関に連絡し、 公開初日に「伊藤千代子獄中最後の手紙を見る会」を開催しました。

 当日、中央図書館の講堂一杯の七〇人余が参加し、 マスコミ各社はこぞって「千代子獄中死の原因が夫浅野晃の転向にあった」「アララギ歌人の土屋文明が千代子の実名をあげて詠った」など写真入りで報道しました。

▲『地しばりの花』──伊藤千代子獄中 最後の手紙と「集い」講演録。2005 年刊

 「会」には、千代子の郷里、諏訪市の「伊藤千代子こころざしの会」事務局長の三沢実氏、在京の研究者、藤田廣登氏も駆けつけ、諏訪と在京での顕彰運動について発言しました。

 その場で、「手紙公開の集い」の開催が決められ、実行委員長には諏訪市出身の石城(いしがき)謙吉氏(元北大演習林苫小牧林長)が押され、 七月三日、苫小牧市民会館に三〇〇人余が参加して開催されました。

 講師には、長野市の文学研究者の東栄蔵氏が「こころざしつつたふれし少女・伊藤千代子」と題して、 女性革命家研究者で日本共産党常任幹部会員の広井暢子氏が「歴史をつくり、歴史に生きた女性たち」と題してそれぞれ講演しました。

 この講演録に千代子の獄中最後の手紙を収録した冊子『地しばりの花』(写真)が発行され、今も読み継がれています。その公開から五年ごとに「公開の集い」が開かれてきました。

映画製作・上映運動の高揚の中で苫小牧支部の再飛躍を

 今年(二〇二〇年)が、前回から五年目になりま す。この年を記念するかのように、「伊藤千代子の映画 化企画」が発表されました。

 同盟苫小牧支部は、この 間、会員一・五倍化、支部内の班を二カ所に設置。そして、千代子ゆかりの地で、上映権道内 30 口の2割(6口) の達成をめざすとともに先触れの活動を定着させ、募 金に応じてくれた方に国賠署名をお願いし、学習会を 開き、参加者に入会を勧めるなど、運動の活性化と好 循環が始まっています。

 獄中から最後の手紙が発信さ れてから九一年、苫小牧での手紙公開から一五年、こ の年にあってわが同盟は、千代子のこころざしを受け 継いで、あらゆる面で飛躍をとげなければなりません。 (はたけやま ただひろ・北海道同盟苫小牧支部長)

【手紙公開15周年の集い】
 10月24日午後、在京・岐阜県各同盟からのツアー団27人を迎えて開催。 第一部「手紙を見る会」に続いて、第2部「記念の集い」では図書館長、入谷実行委員長、宮田北海道本部会長挨拶、 次いで映画「伊藤千代子の生涯」総監督・桂壮三郎氏の「映画製作の現状と展望」、畠山忠弘氏による「手紙公開と顕彰運動」、 藤田廣登氏の「手紙発見の意義と映画運動の全国状況」などの報告が行われ、参加者の意見交換と経験交流を行いました。

【獄中最後の手紙閲覧の方法】
①苫小牧市立中央図書館あてあらかじめ予約が必要です。☎ 0144(35)0511 苫小牧市末広町3─1─15
②参観ガイドを要望されるグループなどの要請先= 畠山忠弘(同盟苫小牧支部長) 携帯電話:090─8279─6726

【参考文献】
①『地しばりの花」』──獄中最後の手紙四通と「集い」講演録 頒価500円+ 送料
②『増補新版 時代の証言者 伊藤千代子』 頒価1600円+ 送料
①の取扱先=畠山忠弘 FAX0144(72)9700/
①②の取扱先=「映画製作を支援する会事務局」藤田廣登 FAX04(7174)2028 携帯電話090(4527)1129

【歩く歩くたくさん歩く──リハビリに励む毎日】
 松本五郎さん描画「桔梗」
 本誌前号に登場いただいた松本五郎氏は、脳梗塞を発症入院中です。
 往復書簡の三浦史朗君の賀状を壁に貼り「史朗君との約束です。 歩く歩くたくさん歩く」と懸命にリハビリする毎日です(画は9月下旬書状から)。

このページの記事 原典:「治安維持法と現代」2020秋季号No.40

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